[2022/4/4]
新商品の『食塩不使用 中華めん』販売開始しました。。
奈良時代の遣唐使が持ち帰った食物には、醤油、納豆、胡麻(ごま)油、唐菓子などがありました。この唐菓子の一つ、索餠(さくべい、さくへい、むぎなわ)がそうめんの原形といわれています。
小麦粉や米粉に塩などを加えて練り合わせ、蒸したり、油で揚げたりして作り、仏前へのお供えとして、用いられていたようです。当時は、練ったものを引き延ばし、縄のように縒(よ)り合わせて乾燥したもので、長さが6~9cmでした。
平安時代の書物「延喜式」や「天延ニ年記」には、そうめんの原型である索餠に関する記述がみられます。「延喜式」によると、宮中では毎日、天皇と中宮に索餠が出されています。その原料は、小麦、粉米、塩で、細くて長い索餠をつくっていたようです。
鎌倉時代には、宋で修行した栄西や道元によって、新しい製造技術が持ち込まれました。宋からの帰国後、建仁寺、永平寺を建立すると、寺を索麪製造所にしています。
その他、京都周は東福寺、辺で醍醐寺、相国寺、奈良では興福寺でも製造が行われていました。この頃のそうめんの製造方法は、麺生地に油を塗り、熟成させ、棒に掛けて引き延ばすという形に変わっており、現在の日本で作られるそうめんと同じものが出来上がっていました。
室町時代は、宋や元の文化や禅宗文化の影響を受け、和食(禅風食)が発達しました。公家の間にも素?(そうめん)として広まっていきます。また、当時の文献からは、そうめん屋なるものがあったこともうかがえます。